2007年5月3日・・・

5. 自他ともの幸福を開く


午後は、「自他ともの幸福を開く」 時間

「未来の学校」は、学習の高効率化に成功した。これにより、昔6時限目までかかっていた一般教養教育が、 午前で終わるようになったのである。 これにより空いた午後の時間を、「専門・職業」教育に使えるようになった。 この時間の中心テーマは、「自他ともの幸福」である。

「職業」「ボランティア的なもの」も、 共に「人の手助け」である。両者は似ている。
しかし若干の違いもある。「ボランティア的なもの」は、「他者につくす」ことが中心であるのに対し、 職業は「他者につくす」ことの見返りに「金銭」をもらう。すなわち「自分の生活のため」の色合いが強い。 それゆえ「自分のため」であり、「自分につくす」とも言える。

「未来の学校」は、「自他ともの幸福」を目指せる人づくりの場である。午後は、自分のために働き、 他者(人間や動植物、環境)のために働く。 すなわち「自己の可能性開発」と「ボランティア的なもの」に使われる。」

全体的に、両者のバランスが取れていることが望ましい。「ボランティア的なもの」が好きだから、 「これだけ一筋」は良いように見えるが、自己のスキルや個性がより魅力的になれば、「ボランティア的なもの」でもその力が、より発揮されて、幅広く貢献できるものなのだから、両者を心がけるべきである。 「自己の可能性開発」だけは、なおさら良くない。「才能ある畜生」を育成してはならない。

● 自分につくす・・・「自己の可能性開発」

家庭の意向で、将来の職業がほぼ決まっている小学生も、若干はいるだろう。農家、家内産業、伝統的な家元、職人、医者、音楽家、俳優など。しかし、ほとんどの児童は、仮に淡い希望はあるとしても、「自分で自分がわかっていない」だろう。

「未来の学校」は、その一人ひとりの可能性を、「多くの場や多くの人」に接触する中で気づかせる。 教師は、学習指導の時間を少々減らし、管理職も加わり、子どもたちのために、学校と社会との間に立ち、コーディネータの役割をする。学校と社会が一体となって、子どもたちの「可能性を開発」できる「場」を、学校内に、地域に、農家に、自宅に、商店に、町工場に、スーパー、デパートに、駅、空港に、ホテル、病院、老人施設に、幼稚園、大学、研究機関に、 役場、官公庁に、 裁判所、国会に、
IT・金融・法律・報道・芸能・娯楽・電気・建設・機械・自動車・運輸・サービス・食品 関連企業、あるいは、一般事務系、営業系、専門職系などあらゆる分野に用意する。

 それは子どもたちの「自分さがし」の見学、仕事見習い、インターンシップだから、実社会の「すべての仕事」が対象になる。幸運な場合には、かなり早い時期に、内定者も出るだろう。これは生徒・学生側と、企業側の両者にメリットがあると考え、両者が進めたのである。もちろん任意であった。 強制は両者ともに趣旨に反する。

このような訳で、「未来の学校」の教師は、最新の現実社会に常に注意を払っている。「学校で習ったことは、世の中に出て役に立たない」と言われた原因は、昔の学校教育の内容が、あまりにも固定的で、実社会から隔絶していたからである。

実社会の「すべての仕事」と言っても、もちろん「 悪の仕事 」など論外である。人をだます卑劣な仕事など、いくら儲かろうが、それを自分の子どもに見せられるだろうか? そもそも、そんなものは「仕事」ではない。「詐欺」である。 暴力団ないし、その関連企業も厳重に調査し、除外する。自分の子どもの教育のためにも、すべての大人は自分たちの生き様を、もう一度初心に帰り、反省すべきであろう。もちろん職業に貴賎などない。あってはならない。ありのままでよい。

スタントマンや高所の危険職業、建設業、消防、警察などの仕事であっても、児童・生徒の安全が確認されているならば、実現されることが望ましい。すべての職場において、普段より きれいに繕う必要はない。ありのままの職場でよい。なぜなら、そこに将来、勤務するかもしれないのだから。

親により将来の職業が明確に期待されている小学生。例えば、楽器演奏者を両親に持つ子どもなどは、すでに小学校入学前から、親による楽器演奏の手ほどきを受けている。 伝統的な家元の子弟、職人なども同様だろう。あるいは農家など。 この様な小学生・生徒の「午後」は、親の元で、「専門職業」教育を受ける。 もちろん「ボランティア的なもの」の時は、この限りではない。以下の場合も同様である。

野球選手志望、サッカー選手、各種スポーツ選手、相撲、格闘家、プロ棋士、ダンサー、日舞、音楽、芸術家、落語家志望の子どもたちは、「午後」それぞれ、その練習に打ち込む。その場は、学校を中心として、それなりの場所に移動するときもある。「未来の学校」は、学校も「個性化」を進めている。つまり教育上の「人的・物的」資源も体育系、芸術系、一般教養系などのように個性化されて配分されるので、それぞれの「個性化」した学校に移動するのである。 小学生の場合は、自転車で移動できるくらいの学校であるが、中学・高校になるとやや遠くなることもある。

親は音楽家ではないが、本人が音楽志望の子どもたちもいるだろう。音楽に「個性化」した学校では、楽器が豊富にそろっている。鍵盤楽器、弦楽器、金管楽器など。そして、先生は、学校の先生をはじめ、有名なプロの奏者、無名のプロ奏者。地域に住んでいる先生のほかに、学生・生徒・児童も「後輩」を教える。そこには、「音楽で世の中に貢献したい、自己実現したい」という共通の志をもつ、大人や大学生、高校生、中学生、小学生が、互いに教えあいながら練習に励む光景が見られる。

各種スポーツ選手も同様である。野球選手志望の子どもは、野球練習ができる「個性化」した学校へ移動し、 サッカー志望は、サッカー練習ができる学校へ移動する。プロテニス・プレーヤー志望はテニス練習ができる学校、あるいは 地域のテニスクラブに行き、地域の人に混じり練習する。 音楽のときと同じように、大人から大学生、高校生、中学生、小学生までが集まって、それぞれの練習に打ち込んでいる。

そこには、一軍・2軍のプロ野球選手、Jリーグの面々も喜んで顔を出し、アドバイスする。 皆、幼い時から「人間として大切なこと」を 教えられ、体験してきている。学校で、家庭で、地域で。それは心身にしみ込んでいる。 「助け、助けられることは、うれしい。楽しい。人間として生きがいを感じる。好きだ。これが本当の幸せだ。」と皆、心から感じている。

当然、ライバル意識もある。秘密のノウハウもある。嫉妬心もある。闘争本能もある。しかし、後ほど触れるように、 未来の偉大な社会では、すべての構成員が 食べていける保障があるのである。趣味に費やす時間的余裕すらある。極端な贅沢を言わなければ、「文化的な」 衣食住は保障されているのである。

● 他者につくす・・・「ボランティア的なもの」

医者、看護士などの医療系の職種志望者は、高校になると、その午後の「ボランティア的なもの」の時間には、病院や老人施設に赴き、そこで老人や患者に仕えるような「ボランティア」活動をする。また「何のために」自分は医者になろうとしているのか。学問的好奇心だけなのか問いかける。「医者は、苦しむ患者に、同じ人間として同苦し、奉仕する職業」たることを徹底して指導される。そこでは人の臨終に出会うこともある。それを通して、社会的立場がどうであれ、皆同じく尊厳なる一人の人間であることを感得する。これら「ボランティア活動」の記録が、医学系大学の入学試験に考慮されることになる。

午後の「ボランティア的なもの」としては、地域に住む人々と触れ合いながら共同で作業したり、リサイクル活動のように何か社会に還元できる達成感のある活動や、緑化作業、自然保護の活動のように成果が後々まで形として残るものが望ましい。

ダンス系の小中高生が集まる「個性化」した学校の児童・生徒・学生は、ボランティアとして、定期的に高齢者施設などで、自分たちの練習成果を披露する。音楽に合わせ、ダンスを披露し、お年寄にも喜ばれている。

音楽系の「個性化」した学校も、同様である。バイオリン、ビオラ、チェロなどを担いで、高齢者施設、地域の老人会を、 訪問演奏して、大歓迎されている。歌手志望の生徒は、お年寄りとのかかわりで、昔のよき歌を知り、レパートリーに加える。 歌って大拍手を受けている。吹奏楽部は、時に地元商店街を盛り上げるために行進する。

一般教養系の高校・大学。そこの「幼児ボランティア・サークル」の生徒・学生は、地域の保育園、幼稚園、小学校を訪れて、園児とともに遊んだり、その園のお手伝いをする。小学校では、児童たちとかかわる。インターンシップもある。

「おはようございます。ゴミ出しです」「いつもありがとうね」立川市立若葉小学校の4年から6年の男女12人の児童が登校途中に地元の団地の高齢者宅を訪ね、ゴミ出しを行う「ゴミ出しボランティアサークル」の活動を続けている。登校日だけでなく、冬休み期間中も行っており、昨年12月都から感謝状を送られた。児童も「(お年寄りに)感謝されるとうれしい気持ちになる」(読売3月2日) これは、朝の登校時であり、「午後」ではない。これでもよい。「ボランティア的なもの」は、必ず「午後」でなくてはならないということではない。また 午後の所属は、午前中と違い、固定的でない。希望して了解が取れれば、一般系、体育系、芸術系を自由に移動できる。「午前」の方は移動できない。その教育内容は、全国共通である。