2007年5月3日・・・

3. 「落ちこぼれ」はない


算数・数学で、「落ちこぼれ」が無くなった原因は3つある。

<原因1: 学習事項の厳選 「子どもたちの幸福」という究極の目的達成のため、すべての子どもたちが、共通に学ぶべき学習事項を、徹底して「基礎基本」に精選、厳選したからである。

人は生まれつき、若干の差がある。歌唱力、計算力、走る力など、あげれば切りがない。将来、数学者や技術者になる素質をもった子どもなら、高度なことまで学んでもよいし、楽しいだろう。しかし、すべての子どもが数学者になるわけではない。算数には本当に苦労しているが、芸術、料理、作文、演劇などに 素質がある子もいる。サッカー選手、野球選手、格闘家 志望もいるだろう。将来、その分野で数学は使わないとしても、加減乗除のような「基礎基本」はマスターすべきであろう。

このように、将来、進むべき方向が互いに異なるであろう、すべての子どもたちに、共通して学ばせる 価値があるもの。それは、やはり社会生活に 「これだけは欠かせない」と判断されるもの。 すなわち、徹底して厳選され、精選された「基礎基本」だけである。

そして 徹底して厳選しても普通児・優秀児が失うものは何もない。  なぜなら、彼らは「基礎基本」の終了後は、各自に適したレベルに進み学んでいるからである。(応個学習)

<原因2: スモールステップ応個学習 算数、数学においては、 その教授方法・学習方法を変えたことによる。 すなわち、昔の一斉指導、習熟度別指導を大幅に減らし、その分、応個学習、個人別学習、 本格的自学自習システムを採用したからである。

算数、数学が苦手な児童・生徒においては、自分の努力に応じて上達できること。 「やったらできた」という成功体験をもたせられることが、特に大切である。  これを可能にする方法が、「スモールステップ応個学習」である。

昔の一斉授業では、その枠組みの中で、遅進児と優秀児をどう、 平等に伸ばすかが課題であり、難問であった。どんなベテラン教師でも構造的に無理があった。
しかし本格的自学自習システムは、そのシステムの力により、 楽々と応個学習 を実現し、解決してしまう。 すなわち、 「落ちこぼれ」がなくなるのみならず、「優秀者をさらに伸ばすこと」にも成功した。 たとえ、ベテラン教師でなくとも、システムの力がそれを補って、「みんなが平等に進歩」できるようになった のである。昔の一斉指導に起因する子どもたちのストレス、教師のストレスまで大幅に減少した。

この学習法に切り替えてからは、たとえ算数が少々苦手であっても、負けず嫌いの児童、根気強い一部の児童は、 生半可な普通児に追いつき、追い越してしまう、という光景もしばしば見かける。
意思の強い、努力家の亀が ウサギに勝つのである。人生の大切な教訓を、児童が身をもって学べること。 これも本格的自学自習システムの長所の1つである。

<原因3:学習の中心者は児童・生徒 未来の学校の中心者は、 児童・生徒・学生である。 それは大人たちが、その方が望ましいと考え、徐々にその様に誘導していったからである。 (後述「子どもたちの自治組織」)

学習においても同様で、「本格的自学自習システム」ゆえ、中心者、主体者は児童・生徒である。  算数、数学に例をとると、「応個学習」なので、児童・生徒は、 自分のペースで進めるのである。 ゆえに、「落ちこぼれ」はない。 「落ちこぼれ」とは、昔の学校は、決められた時間内に、教師が全員一律に教えよう、 理解・習得させようと、必死に奮闘していたが故の言葉である。

教育の目的と本質は、児童・生徒が学ぶことであって、教師が教えることではない。   この昔からあった認識を、未来の学校では、その 学校システム3要素 のすべてにおいて、 徹底的に具現化・具体化したのである。これにより教師は、側面からの支援者、産婆役になった。

教師の役割 は、直接教えることから解放され、 学習者の成長を「見守る」こと。個別の質問に答えること、「励ます」こと、「愛情を注ぐ」ことが中心になった。   教師が教授することが完全になくなったわけではないのだが、昔の学校に比べると大幅に減った。

では何が、児童・生徒・学生を教えているのか。いや、児童・生徒・学生は、何から学ぶのか。 それは良き教材・良き環境である。 すなわち、紙に書かれたもの、電子メディアに書かれたもの、自然や社会、職場から学ぶ。 学習者は、自分に適したその「教材」(環境)と向き合って学ぶ。 教師は、その側面に立ち、あるいは学習者に寄り添って、児童・生徒・学生の学習成就を助ける産婆役に なったのである。また、全般的なアドバイザーでもある。

これら原因1・2・3に代表される優れた教育技術と教師の人間としての真心・愛情。 そして「人間として大切なこと」に含まれる 「何のために学ぶのか」という究極の目的の自覚により、  児童・生徒・学生の学習意欲は飛躍的に高まった。  喜びや楽しささえ生じてきた。学習する姿から気迫が感じられるようになった。目が輝くようになった。

これらの、いわば学校としての総合力により、昔、午後までかかっていた教科学習を「午前」で 終わらせることが可能になったのである。  午後は、すべての子どもたち「一人ひとりの可能性を開発」することに使う。  これも、「子どもたちの幸福」という究極の目的達成のための配慮である。